txt:ふるいちやすし 構成:編集部

新年明けましておめでとうございます

PTC69_01

年末であろうが年が変わろうが、普段めったに過去を振り返らない私だが、ちょっと気になってこのコラムの第一回を見てみた。2009年6月!その第一声が「見方を変えてみよう。そうする事で映像制作者はもっともっと自由になれるはずだ」。もちろんこれがこのコラム、プチ・シネのテーマではあるのだが、かなりショックだ。5年以上経って、同じ事を言っている。

もとよりこのコラムはサクセスストーリーや指南書といったものではなく、新しく文化を作ろうとする生ドキュメンタリーみたいなものだ。一つの作品、一つのベンチャー企業などではなく、文化だ。どう少なく見積もっても10年はかかるだろう。それは覚悟の上だが、果たしてその半分の階段を上って来ているのだろうか?映像制作は少しは自由になれたのだろうか?確かに少しは楽になったかもしれない。安くて高画質な作品を撮れるようになったかもしれない。だがその結果としてビックリするような素晴らしい作品が生まれただろうか?映画祭やミニシアターに人が集まるほど話題になったことはあっただろうか?そこからスターは生まれただろうか?

まだ何も変わっていない

むしろミニシアターの閉館は続いているし、それは東京・渋谷の一等地にあったとしてもだ。映画祭のクオリティーは横ばい、もしくは下降していて、地方は相変わらずだし、フィルムコミッションでさえも一時の勢いは失せているところが多い。確かにこのコラムで示してきたこと、私自身の活動や作品でも間違いや失敗、迷走はあったが、少なくとも私は闘い続けてきた。誤解しないでほしい。それを自慢したいのでは決してなく、どんな形であれ、同じような闘いを挑んでいる人達を見かけることがないというのがとてもショックなのだ。

このコラムや私の考え方に共感してくれる人は大勢いる。貴重な意見を聞かせてくれる人もいる。ロケなどで地方に行った時や東京で地方の方に会った時にも何度も「今あるチャンス」を語ってきたし、少なくとも彼らの心に火をつけることはできた筈だ。だが「アクション」は生まれない。感心して、少し熱くなって、「勉強になった」と、それで終わる。繰り返しになるが、このコラムはサクセスストーリーではなく、ましてや私の活動や作品の宣伝ではない。誰かがどこかで「アクション」を起こす動機付けとヒントなのだ。それは何も大袈裟なことではなく、たった一人ででも始められる事なのだが、それが始まらないのはなんとも歯痒い。

決して諦めはしないが、同じような5年を繰り返していては何も変わらないだろう。どうか、どんな小さな事でもいい、どんな短い作品でもいい、動いてほしい。すでに動いている人は声を上げてほしい。私は全力で応援する。

PTC69_02

一つ、気になることがある。このコラムや私の考え方に共感したり、アクションを起こしてくれる人の中に若い人があまりいないということだ。もちろんベテランが嫌だということではなく、むしろ頼りになる。PRONEWSというメディアの特性でもあるのだろうが、読者のほとんどは既に生活の基盤もあり、中には映像制作を仕事として行っている方々も多くいらっしゃるだろう。そういう方々が思いを新しいアクションに変えるという事は、大変難しいことだという事は想像できる。

ならば若者はどうだろう。まだ何をやってもいいし既成概念にとらわれる必要もなければ、職業として成立させる必要もない。そんな彼らが今ある優れた機材を使い、彼らの感性を映像作品として自由に表現できたらどれだけ素晴らしいだろう。確かにキャリアと知識はそれなりに必要だが、考えてみてほしい。撮影や編集において我々が必要としている知識は、例えば高校生の科学や物理に比べれば数段シンプルで理解しやすい物だし、カメラワークに必要な身体能力に至っては比べるのもバカバカしいほどだ。ただ、彼らはまだ知らない。それだけだ。

そうなると引っかかるのが教育だ。実は私はここに危機感にも似た大きな問題意識を持っている。昨年、某有名芸術系大学と映像系専門学校の卒業制作上映会に行く機会があったのだが、驚いた事にそのほとんどがフィルム作品であった。それでもその作品が素晴らしければ文句はないのだが、実際はひどいものばかり。そりゃそうだ、大きくて難しいカメラで「あと○○フィートしかフィルムを使えません!」とか言われたら私だって緊張するし、ストーリーや演技、一つ一つのカットに対する追い込みなんて未熟な学生や役者にはできたもんじゃない。それが一つの経験になると言えばそれまでだが、少なくともこれからの映像制作を担う若者にとってはほとんど意味を持たない。

アンケートにはそれぞれの作品に対する酷評と共に、そういう学校や教授に対する批判もバッチリしたためておいた。大方、老いて引退した元なんとか組の誰かが教授に収まり、自分のやってきた得意分野をあたかも映画の基礎だとして若い人達に押し付けているんだろう。ストーリーまでもが何の新しさもない古臭いものばかりだった。その反面、就職率を追い求める専門学校などでは、報道やバラエティーで即戦力になるような教育しかなされていないというが現実だ。少子化の中での学校経営としては仕方のないことなのだろうが、映画に夢を持って来た若者がうっかりそんなところへ入ってしまったら全てが終わるだろう。

ならばその前の高校生や中学生に対して、私もワークショップ等を通じて“今”の映像制作を伝えようと試みたこともあったが、そこはそれで保護体制や教育組織の問題で、私のような者が入り込めるような隙はない。例えば中高生がバンドを組むくらいの感覚でプチ・シネチームを組んでくれるようになれば文化的にとても面白い事になるだろうし、それは不可能な事ではない。残念ながらその可能性を大人達が潰してしまっているようにしか思えないのだ。

PTC69_03

去年の活動の中で、私の考えに共感してくれて、実際に手を挙げて、献身的に一緒に活動してくれた人が数人いた。これが大きな木になる種なのだと実感している。それでも小さなチームでじっくりやるというプチ・シネスタイルに変わりはないが、こういう人達を増やしていくのが今後真剣に取り組まなくてはいけない課題だろうと思う。それは撮影スタッフだけではない。

広報やデザイン、そしてこれから上映していくにあたって、一緒にアクションを起こしてくれる人、そしてそういう作品やチームが他にもあるなら、その人達との連携。更にはオーディエンスやスポンサーへと、人の繋がりを増やしていかなくてはいけない。正直、人付き合いは得意な方ではない。それでも文化は人の繋がりと広がりなくしては存在できない。もちろん良い作品を作る事が大前提ではあるが、それをきっかけに繋がった人々を活かし、拡げる為に、何かをしなければいけないだろう。

スポンサーにしてもそうだ。「千年の糸姫」は元々1,000万円規模で考えていた長編作品だったので大赤字ではあるのだが、それでも200万円近くのお金を集めることができた。クラウドファンディングで2,000円を投じてくれた人も含めて、その「思い」を「アクション」に変えてくれた方々が大勢いたのだ。このお金を使い果たしただけではいけない。この方々こそ宝なのだ。一つの作品をきっかけに集まってくれた人々とその思いを活かし、拡げる、チームと呼べるようにする為に、私は何かをしなくてはならない。

今は編集中で、どうしても意識が作品の方へ集中していて、いや、それが私の本分だから一番大事なことではあるのだが、これだけではいけないと思っている。とても大きな課題であり挑戦だ。私自身も新たなアクションを起こさなければならない。それができなければ映像制作はできたとしても、文化は創れないのだと思う。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。