音楽業界の辿った道とミスを振り返る

一つの考え方としてだが、同じデジタルコンテンツとして音楽と映像はデータ量の違いこそあれ、同じ道を辿るのではないかと懸念している。ネットのインフラやハードウェアが映像をストレスなく楽しめるようになるのは目に見えている。もはや単純に興味深い映像を無料で配信するインフラは整っているし、それをどうこう言える段階でもない。小さな救いなのはそこでの課金制度と著作権保護のシステムが少しはできつつあるという事だろうか。

だがそのシステムはクリエイターの生活を支えるにはほど遠いものであるし、ましてやより質の高い次の作品を作る為の資金等、得られる可能性は限りなく低い。広告以外でのクリエイターへの報酬はほとんどがパーセンテージで決められている。例えば同じパーセンテージでも元が1,000円のCDと200円のダウンロードとでは1/5になってしまう。これでは生き残れるミュージシャンが激減するのも当然だ。音楽作品よりも遥かに多くの人と企業が絡む映像作品では当然分配が多岐に渡り、パーセンテージは更に低い物になるのが常で、中には印税の分配すら受けられない制作者もいる。そんな中でクリエイターとして生き残り、質の高い作品を作り続けるにはどうしたら良いのだろうか?

今回はそれを探るべく、そう、あくまで生き残る術を見つける為に、あえて音楽業界の辿った道とミスを振り返ってみよう。きっと私達映像クリエイターが犯してしまいそうな、或いはすでに犯してしまっている事があるはずだ。だから私達は知っておかなければならない。

手に取った時の喜び

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それではなぜCDが売れなくなったのか。つい15年ほど前にはミリオンセラーが続出し、大金持ちすら生まれていたが、そこから一気に下降していったのはやはりネットのせいだと言う人が多い。だが実はもっともっと以前から音楽業界の重大なミスは始まっていたと思う。まず一つはレコードからCDに代わった時だ。当時の感覚では確かに音は飛躍的に良くなった。その音が届けばいいのだからと、パッケージを1/4サイズのプラスティックケースにしてしまった。つまり、レコードというジャケット込みの文化商品を捨ててしまったのだ。しばらくの間は輸入盤のみ、そのプラスティックケースを更に2倍ほどの大きさの紙箱に入れて質感を保っていたが、それもエコロジー的観点から無駄だと言われ消えてしまった。

やはり商品を買った時の嬉しさというのは、手に持った時の質感が大いに関係する。その証拠に今また紙ジャケットやボックスセットのCDが多く出回り、このダウンロード全盛のご時世でも、この”無駄”を喜んで買っているではないか。これは我々映像作品を作る者も考えなければならない。どこででも映像が見られるこの時代に、買ってでも手元に置いておきたいと思う物は何か?それがジャケットデザインという副産物頼みだとしても、それは我々の作品を愛してくれる事とは違うと言い切れるだろうか?喜んでほしい。その為にベストを尽くす、という事をためらってはいけないと思う。

「良いもの」を「良い環境」で

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もう一つ、どうしても許しがたい事がある。それはCDが未だ44.1kHzという少なくとも最高音質ではないと言う事だ。映像作品の為のDVDでも普通に48kHz、短い作品であれば96kHzでの収録も可能だというのに、あろうことか更に高圧縮のデータ売りに本腰を入れている始末だ。音楽作品が最高音質でないというのは一体どういう事なのだろう?音楽業界が過去にその努力をまったくしなかった訳ではない。96kHzのCDが売り出された事もあったが、それには専用のプレーヤーが必要で、ほとんど普及しなかった。その上時代は残酷な方向へ進んだ。まずはコンピューターミュージックの発展により、高サンプリング意味があまりない時期があった。そして放送の現場での音圧合戦。ダイナミックレンジの全てに音を詰め込み、レベルメーターが常に振り切っているサウンドに対しては、繊細な音を表現する為の高いサンプリングはあまり意味をなさない。

だが、それが時代の音として流行し、スタンダードとなり、ミュージシャン達ですらそういう音を作るのが当たり前になってしまった。そうなるとオーディエンスにとっても何もいいスピーカーで空気に音を浮かべて聞こうという欲求が失せてくる。どっちが先か分からないが、iPodの流行もその流れを決定づけた。そして今は音楽をヘッドフォンやコンピューターのスピーカーで聴くのが当たり前。どう考えてもステレオやCDをわざわざ買う動機は見つからない。音楽業界がいい「曲」を作り、それを広めるのはいいが、それを最高の「音」で楽しんでもらおうという姿勢をどこかで諦めてしまったのだと思う。

この傾向は映像にとって今、正に目の前にある。最高の映像を楽しんでもらおうという姿勢はあるにはあるが、3Dはやはり専用機器が普及せず、4K、8Kの映像もまだ普通のハイビジョン映像を作る為の道具としてしか使われていない。地デジ化によってほぼ全家庭にハイビジョンテレビが導入されるという幸運に恵まれながらも、Blu-rayは普及せず、未だにDVDでSD画像を見せようとしている映像業界に未来は感じない。そして話は少し戻ってしまうが、DVDやBlu-rayの統一ケースに、商品としての魅力はあるのだろうか?テレビと同じ映像を課金して見せようとする配信システムは本当にそれでいいのだろうか?最近、デジタル化が進んできている映画館もよほど大きい所でない限りは2Kプロジェクターの導入が精一杯。同じ2K映像を自宅の大きなテレビでくつろいで見ている人を本当にそれで呼び込めるのだろうか?

やはり私たちは学ばなければならない。そして真剣に考えなくてはいけない。制作者もオーディエンスも権利を主張しているだけでは未来はないだろう。10年かかろうとも、お互いが幸せになれる環境を作らなければいけないし、それは一つの画期的なハードウェアがもたらすものでもなければ、一人のスターや人気作品が生み出す物でもない。まずは意識と欲求から育てるような種蒔きが必要なのだと思う。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。