ついにその日が来てしまった

AppleのiPhone4S発表イベントの翌日だったことも、訃報に衝撃を強めたのではないかと思います。Jobsは今年の前半から休養しており、さらにCEOの職を退任したことから、私としてはある程度の覚悟は持っていました。しかし、それは突然静かにやってきました。彼は亡くなる直前まで、Appleのために少しでも前に進もうとしていたのではないでしょうか。この姿勢は、自らスタンフォード大学の卒業生に向けて送ったスピーチそのものでした。「Stay hungry, Stay foolish.」このメッセージはシンプルなだけに、受け取る側の解釈でさまざまな思想が埋め込むことができます。私の解釈は「少しでも前に進もう」です。そんな前向きな姿勢を持つことの勧めだと解釈しています。

前に進むためには、時には障害が起こるものです。その前に進む道を塞ぐハードルに対しては、ネガティブに考えずに楽天的に取り組むといいよ。そのためには常に前進することへの情熱が必要なんだ。そうJobsは言っているように受けとめています。人間はだれでもその日が来ます。その日の直前までどのように歩いていけるかを、彼の姿勢は私たちに考えさせてくれました。特に高齢化社会を迎える先進国では、人生後半での生き方についての参考になるのではないでしょうか。

ひとつずつの積み重ねが大きな結果を生む

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Jobsの功績を讃えるテレビ番組やWebでの書き込みを目にしますが、本当に彼は何年も先のことを具体的に予言していたのでしょうか。どの方向に進むのかがはっきりと見えていたことは、何度も観たJobs自らのスピーチからは理解できます。しかし、具体的な製品のイメージや仕様までは、細かく一手ずつ計画していたとは私には思えないのです。本人ですら、コンピュータ業界の3年後の姿は予想できないと言っています。

彼の手法は、ひとつずつ丁寧に仕上げることを繰り返す。これに尽きると思っています。それはメジャーリーグでイチロー選手が、ヒットを一本ずつ丁寧に重ねたようにです。イチロー選手も、遠くの目標に行くためには小さなことの積み重ねが必要だと語っています。進む方向を自分自身で確信して、そこに対して一歩ずつ精度の高い仕事を繰り返す。その結果Appleの洗練された製品やサービスが登場したのです。Appleの製品設計の段階で、設計者にしかわからない、もしかするとユーザーは気がつかないかもしれない小さな点にまでJobsが拘ったのは、購入者がその細かいところに気がつくかもしれないとの心配ではなくて、この一歩の精度を高めておかなければ、進む道への方向がブレてしまうとの自らへの戒めだったのだとも感じます。方向性のブレは自分自身で修正するしかないからです。

個人を豊かにするための製品

Jobsが最初に創ったものは、大型コンピュータに対抗したパーソナルコンピュータでした。それまでのコンピュータは、専用のコンピュータルームに設置された巨大な演算装置で、専門の技術者だけに使用を許された特権的な道具でした。個人が使うパーソナルコンピュータは、操作に関してはマウスを用いた直感的な操作画面のデザインで使いやすくし、専門知識を排除して最初のハードルを低くしました。

文字入力が基本だったコンピュータの操作を、グラフィカルなデザインで人間性を持った機械に仕上げた発想が、後にたくさんのユーザーを獲得することになりました。指示したことを忠実に実行する間違いを起こさない計算機は、ときには工場の生産性を高めるためだけに使われると考えられることもあります。しかし、パーソナルコンピュータでは生産性を高めることが第一目標ではなく、特にAppleの送り出すコンピュータでは、個人ひとりひとりがこれらを使うことで、豊かな気持ちになることを目指しました。ターゲットが人間ひとりに明確に絞り込まれた思想は、使った時のユーザーの満足度を高めることに結びつきます。

今年リリースされたFCP Xは、どちらかといえば批判的な受け止められ方が目立ちました。その背景には、映像制作ツールがチームプレイで使うことが前提という暗黙の了解があったからです。FCP Xは意外にもチームプレイを最優先せずに、まず個人が編集をどうすれば理想的に進められるかを、ゼロから考え直された製品でした。ここにもAppleの個人をターゲットにした思想が、強烈に盛り込まれていると私は感じています。

この先の映像業界

Appleは大きなものを失って、この先の進む道を懸念する向きもあります。しかし、Jobsが遺したものはAppleなのです。Appleという大きな生命体は、内部に独特の発想を成長させる脳を持ち、継続させるだけの熱意を持っています。Jobsが創った最高の作品が、Appleだったのです。私たちがApple製品から感じ取るメッセージは、使う人の数だけ存在します。何を感じてそれをどのように活かしたいのかは、周りの雑音にかき消されること無く、自信を持って進めたいものです。それは人間の顔がみんな違うように、考え方も違うはずだからです。それがThink differentです。

周りと異なる考え方を自分でかき消してはいけません。そのためには、多様な意見が共存できるための純粋なコミュニティが欠かせません。コミュニティの育成は、この先の映像業界では必ず役に立つ基盤になるでしょう。門外不出のテクニックが珍重された時代は、もうすでに過去のことです。インターネットの影響で、制作テクニックは積極的に公開することがトレンドになるでしょう。発信することでテクニックが日用品化するのではなく、今後は情報を発信するところにひとは集まります。ひとが集まるところには活気が生まれ、情報も集まるのです。このポジティブなスパイラルが、映像業界全体のレベル向上にもつながっていくと私は確信しています。

JobsはAppleの製品を通して、人間ひとり一人を豊かにすることを目指しました。映像業界でもその考え方を吸収して、もっと個人の力を直結できる雰囲気を高めていきたいものです。

スタンフォード大学でのメッセージ

2005年にアメリカのスタンフォード大学でSteve Jobsは、卒業生に向けてメッセージを残しています。今回私が伝えたいメッセージはこのスピーチに影響された考え方が各所に出ています。できれば若い世代の方々に、是非一度このスピーチを観ていただきたいのです。きっと何か発想を刺激されるセンテンスがあると思うのです。この映像はYouTubeなどで日本語字幕入りのタイプも作成されています。また、全文の日本語翻訳もありますので、是非それらも合わせて読まれることもお勧めします。

WRITER PROFILE

山本久之

テクニカルディレクター。ポストプロダクション技術を中心に、ワークフロー全体の映像技術をカバー。大学での授業など、若手への啓蒙に注力している。