txt:ふるいちやすし 構成:編集部

多彩になった映像のトーン

最近、テレビのドラマやCMが面白い。映像のトーンが実に多彩になってきたように思う。もちろん、大半は古典的とも言える隅から隅までライトの当たったド真ん中映像だが、時々、よくこんなのが通ったなぁと思える暗い映像や、カラーバランスを意図的に崩したり解像度を落としたりといった自由な表現のものが増えてきている。

「通った」というのにはわけがある。私が映像を始めた頃はなかなか通れない関所があったのだ。それがテレビ局への納品の前に立ちはだかるポスプロスタジオで、そこには大概怖そうな編集マンがいて、暗黙のレギュレーションみたいなものがあって(実際当時はプログレッシブ素材はダメと言い張る人もいた)、その人に「これ、大丈夫っすか?」とか、もっと露骨に「これじゃあ流せねえな」とか言われちゃったらアウト。

もちろん彼らがテレビのクオリティの番人であることは間違いないし、何よりもクレームが来ちゃったら大変だというテレビ局からすれば、彼らの目や耳は最後の砦といったところだろう。特に自主映画上がりでテレビの常識なんかこれっぽっちも知らない私が、意味もわからない波形を指差されてギロっと睨まれたらひとたまりもなかった。そんな恐怖を知っている私の感覚からすると、とても通りそうにない映像が電波に乗って流れちゃってるんだ。

これは正直、嬉しくて仕方ない事なんだが、一体何が変わったのだろうか?局が攻めているのか、視聴者の目が寛容になってクレームが減ったのか、ポスプロの怖いおじさんが定年退職したのか、はたまたクリエイターの押しが強くなったのか。多分その全てが少しずつ影響しているんだろう。事実、テレビの中の映像表現の幅は確実に拡がっている。

注目すべきは彩度の低いもの。その中にはLogで撮ったまんまを流してるんじゃ?と思ってしまうほど眠い色のものも見受けられる。カメラもテレビも「色鮮やか」を美徳として作られてるこの時代には明らかに逆行しているともとれるこの挑戦は、私個人としては大歓迎だ。事実、私も撮影の段階でまずカメラの彩度は落として撮る。

理由はデジタルっぽさの緩和と、長時間見続けてもらう映画で視聴者の感度を麻痺させたくないというものだが、10分に一度CMが入るようなドラマでそれをやるには勇気がいるはずだ。ドラマの間にどんなビビッドなCMが飛び込んでくるかわからないし、そこから戻った時の色の浅さには驚いてしまうだろうし、実際そういう経験もある。そのCMに至っては15秒で印象を焼き付けなくてはならないはずなのに、そこで彩度を落とすというのは、冒険以外の何物でもない。

そしてこの冒険には美術、照明、ヘアメイクの理解が不可欠なはずなんだが、いつの間にそういう環境が出来上がったのか不思議でならない。ひょっとすると、Log素材から色を必要なだけ出していくという作業の中から偶然生まれたものなのかもしれないなどと、意地悪な空想までしてしまう。

もしそうなら、現場のスタッフはLUTを当てた普通の色を見てるわけだし、大した意識改革も要らないだろう。現にこのような色の挑戦が始まった時期と、Log収録が流行りだした時期とが妙に重なる。言うまでもなく、Logというものはダイナミックレンジを稼ぐためのものだから、もし私の想像が正しければ、これはとんだ偶然の副産物だと言える。

撮影現場でカメラをコントロールすることによって画を作る

Logで撮ってポスプロでグレーティングが主流になっている現在、私はそれを撮影現場でカメラをコントロールすることによって画を作る。なぜならこれほどドラスティックに色調やコントラスト、シャープネスなどを作ることは単なるカラーエフェクトではなく、作品性に直接関わるトーンを作るということだからだ。その作品性が最も溢れ、演者やスタッフがそれを共有している撮影現場で、トーンだけは後でスタジオでやるからということにはしたくない。

もちろんそれをモニター設備が充分とは言えない現場でやるということは危険だ。だから何?安全性を重視していては大した作品にはならない。そこまで強い主張を持つ画作りには、好き嫌いもはっきり別れてしまうだろう。事実、現在世界配信が行われている私の映画「千年の糸姫」のレビューを見ても、美しい、素晴らしいというお褒めの言葉からチープな画像という酷評まで、様々だ。

私は決して怯まない。見る人全てが気に入るトーンを目指した瞬間、臆病になり、作家性は失われてゆく。まぁ、そんな冒険をテレビの仕事でもできるかというと、ちょっと考えてしまうが。だからこそ、最近のテレビで勇気のある画作りが行われてのには驚きと尊敬を隠せないのだ。

それとは別に、特にCMで目立つのがシネスコープなどのワイドスクリーンで仕上げられてるもの。これは正直言って意味が分からない。それは劇場専用のアスペクト比で、16:9の画面では上下に黒みが入るだけだ。ある種のファッション性なのかもしれないが、この黒みがどうにも鬱陶しい。ワイド感は横だけではなく縦にもあるはずなので、画面いっぱいに使う方が良いに決まっている。

いつでも劇場でかかることを意識する

私は映画であっても劇場でかかる可能性の低いもの、そうでなくても明らかにテレビやパソコンでの視聴が中心となるものは、必ず16:9で撮るようにしている。前回書いたように、近い将来、劇場がなくなることはなくても、劇場を意識しない映画の世界は必ず確立される。その時にワイドスクリーンがどういう意味を持つのか、冷静に考えた方がいい。

理由はどうあれ、映像表現の自由度が拡がったのは嬉しい。キャスティング頼みのドラマという意味では、演技のクオリティーや脚本のつまらないものが多いのは相変わらずだが、それは非常に残念なことにメジャー映画も似たようなものだ。本来、より自由度の高いはずの映画がテレビより先を行っていなくてはならないのだが、そういう印象がないのだ。

いくら予算があっても映画館への動員を考えると、どうしてもキャスティング頼みになり、現場にはいろんな意味で余裕がないのだろう。せめて映画館への動員を考えない自主映画では、テレビに負けない挑戦的な映像表現をしていかなければならないと思う。それができれば自主映画ならではの魅力もできるだろうし、それが存在意義にもなりうる。

自主映画の世界には怖いポスプロのおじさんは存在しないのだから、本来テレビよりも凄い表現が可能なはず。それを肝に銘じて作品を作り上げよう。脚本や芝居を練り上げよう。次々に現れる新しい機材や技術を、既存のルーティンに組み込むだけではなく、ルーティンや常識を変えてでも今できる精一杯の冒険を楽しもう。テレビに負けるな!

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。