txt:ふるいちやすし 構成:編集部

映画とは美術であり、文学であり、音楽である

ああ、また残念な映画を観てしまった。それもそこそこちゃんとした映画館で。今日は批判覚悟ではっきり書こう。常々私は自分の作品に対しても突きつけている。映画は美術であり、文学であり、音楽(役者の声やSEも含めて)でなければならないと。そしてその全てにおいて挑戦がなければいけないと考えている。涼しい顔して成立させればそれがプロか?成立の先には納得はあっても感動はない。もちろん挑戦には危険が伴う。頑張っても納得レベルにしか到達しない場合もあるし、最悪の場合はぶち壊しになることさえある。それが怖くて納得レベルを目標に置いていて、それを超えることはまずあり得ない。

世の中には感動は要らないから確実に仕上げなきゃいけない仕事はある。山ほどある。テレビでは時間を守ること、ミスを犯さないことが絶対だし、スタジオ、大人数の職人達のギャラ、有名タレントのスケジュールなんかを考えると1時間で数百万円のランニングコストがかかる撮影もあるだろう。それは映画であっても同じだろうが、せめて自主映画では挑戦を忘れないでいたい。まるで納得の合格点を伺うような作品が多すぎる。

もう一度言うが、美術として、文学として、音楽として、ただの足し算に終わってはいないか?納得を目指していないか?そんなレベルじゃ奇跡は起きないぞ!役者にしてもそうだ。イケメンがかっこいい服着てセリフを言えば、それで俳優になったつもりか?ここの読者には演者は少ないだろうが、そのレベルを設定するのは制作側だ。

オーディションもそうだし、本番でオッケーを出すのもこちら側だ。突き詰めれば全て監督とプロデューサーの責任なんだ。だからこそ大きな権限を与えられていることを肝に銘じなきゃいけない。愚痴を言うのは筋違いというもんだ。だから私は稽古をたくさんする。そこで求めるレベルを設定するのだ。いくら自主制作とは言え、撮影現場での時間は限られている。そこでできることは多くはないし、それ以上のことを言えば単なるイジメになってしまい、人を凹ますだけだ。もっと言ってしまえば作品や役柄が決まってからでは手遅れな場合もある。普段の意識や数年かけて磨いておかなくてはならないこともある。

そんな思いで私も多くはないが時々ワークショップをやる。そういう機会の初期段階で必ず言うのが、それがあくまでふるいちの個人的なセンスだと言うことだ。そこに集まる全ての人に役立つこと、今後のどんな現場でも通用することなんかを意識していては、それこそ納得レベルのことしか言えなくなる。だから本当はワークショップなんかやりたくない。気が鈍る。でも映画には人が必要なんだ。意識レベルを上げなきゃいけない。そのためにできることは何でもやるという一心だ。

演出とは、いろんな意味で引き出すということ

私がやっているワークショップは演出家として演者達に向かうものと、同じ制作者、技術者に向かうものの両方だが、どうにかこの両面を同時に行えないものかといつも思い、ことあるごとに提案している。単純に演者は撮られることを望んでいるし、撮影者は被写体を必要としている。それだけでも一緒にやる価値はあると思うのだが、それ以外にも理由はある。

例えば、私が演者に対して演出をしている時、演出とはいろんな意味で引き出すということで、そのための私なりの言葉や態度を制作者にも見せたいし、その結果として出てくる演者の表情や動きはそのまま撮影アングルやカット割の動機となる。私の演出行為や演者への指導がどういう変化をもたらすか、例えその結果が自分の好みに合わなくても、または明らかにうまくいってなかったとしても、その一部始終を観察することで、必ずプラスになるはずだ。それは私の経験でもある。ご存知の方もいると思うが、私は自分で映画を作り始める前に、助監督などの経験は一切なく、映画学校に通ったこともない。映画との関わりはサウンドトラックを作る音楽家としてだった。言うまでもなく音楽家の仕事は撮影や編集が終わった後に始まる場合がほとんどだ。

ただ、私は音楽家のポリシーとして、撮影現場をできるだけ見に行くことにしていた。最初はビックリされたが、スケジュールさえ教えてくれれば自分で勝手に行って帰るので、交通費も弁当さえもいらないという条件で、そういうことが可能になった。もちろん、撮影現場に音楽家の仕事はない。そもそもその時は将来自分が監督になるとは思ってもいなかった。ただ、音楽を作るために監督や演者の思いを少しでも肌で感じたかったのだ。ところが運命のいたずらで自分が監督として映画を作ることになった時、その見学が大いに役に立った。

前述の監督と演者とのやりとりとその結果やスタッフへの指示とその結果まで、知らず知らずのうちに、おそらく多忙な助監督よりも余裕を持って観察することができていたのだ。同じように例え私がカメラマンに撮影の指導をしていたとしても、その映像表現の意味を自分や他の演者が撮られるのを観察するだけで、自分の役者としての役割を一層理解できるだろう。

間違ってはいけないのは、決して両方の仕事を一人がやるためではない。あくまでそれぞれの仕事を深めるために一同に会する機会があった方がいいと思うのだ。もちろん制作者と演者の出会いから新しい作品が生まれる期待もある。いつかどこかで実現させたいものだ。

ここまで読み返してみると、上から目線に見えなくもないが、わかって欲しい。ここに書いたことは私自身が自分に向けているプレッシャーでもあって、私自身も限りなく磨き続けるためのものだ。ただ、日本映画のレベルを本当に上げるにはもっともっと多くのクリエイターとその作品が必要なのだ。そのチャンスは自主映画にこそある。さあ、挑戦しようじゃないか!

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製作当初から、今も“恨み”という感情を捨てられず、紛争を続ける国々での上映を目指してきました。そして完成と同時に海外の映画祭への挑戦を始め、同時に日本国内での劇場公開を実現させるべく活動してきました。お陰さまで、今年の二月にはアジア国際映画祭、ロンドン・フィルムメーカー国際映画祭と立て続けに選ばれ大きな賞賛の声をいただき、特にロンドンでは5部門(監督、音楽、主演女優、主演俳優、ヘアメイク)の最優秀賞にノミネートされ、最優秀監督賞(長編外国語映画部門)を獲得することができました。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。