Vol.125 商業映画とアートフィルムの違い。自身のターミナルを明確にして制作に挑む[東京Petit-Cine協会]

txt:ふるいちやすし 構成:編集部

様々なガイドラインなるもの

新型コロナウイルスの第二波がいよいよ現実味を帯びてきた今日この頃だが、映像業界にも番組、撮影現場、編集室、果ては脚本そのものや打ち合わせに至るまで、様々なガイドラインなるものに縛られるようになった。その少し前に経産省まで上げて議論されたハラスメントのガイドラインも含めて、今回はガイドラインその物を考えてみたい。

初めに言っておくが、私は何も感染リスクを無謀に冒したり、パワハラやセクハラを肯定することは決してない。管理者や個々人が最善の意識やコミュニケーションにより、それらの事故や危険を徹底的に排除すべきことだと考えているが、ガイドラインというものや法律や条例は、性善説ならぬ性悪説に基づいて作られている。事故や危険を避けるという意味では同じでも、意識やマナーが欠落しコミュニケーションを充分取れない人々や状況でも事故が起こらないようにするためのものだ。

例えば公園の高い滑り台から落下するという不幸な事故が起こったとする。それが公立公園で裁判となった時、それを設置した行政の責任が問われると、ガイドラインや条例が生まれ、高い滑り台は一律に危険遊具とされ、公園から姿を消す。今や公園の滑り台は一様に大人の肩の高さほどしかない。確かに安全ではあるが、子供達は高い所から落ちると怪我をするぞ、という経験をすることなく、結果、注意力を鍛える場を失う。親もことさら強く注意をすることなく済む。

裁判や契約論においては一律の規範が便利であろうが、およそ人間の感性やマナー、注意力といったものを無視し、期待していない前提で成り立っている。果たしてこれでいいのだろうか?行政や裁判ではこうした一律のガイドラインや法令を作るしかないのだろうが、大人の、ましてやプロフェッショナルやそれに準ずる人の現場で、それは必要なものなのだろうか?少なくとも、アートの世界ではそうはいかない。

感染危機にしてもパワハラやセクハラにしても、もっとギリギリのところでやっていて、性悪説で語られてしまうと、その微妙なラインがバッサリ禁止されてしまう。それは文化の衰退を意味するとまで感じてしまう。逆にアーティスト達はそのギリギリの場所にいることを自覚し、高い滑り台に挑戦するごとく、最善の注意とマナーを注がなければならない。特に一般人を巻き込む場合にはより敏感にならなくてはいけない。

ハラスメントであるかそうでないかは受け取り手の感覚によるというのはよく言われることだが、全ての人にとって大丈夫なガイドラインを作るより、個々人との“事前の”充分なコミュニケーションによって解決する方がよっぽど確実ではないだろうか。

テレビのような公共性の高いメディアの現場やメジャー映画のように現場に一般の会社員が数多くいるような現場では、そういった細やかなコミュニケーションを個々人と持つことは難しいだろう。そういう意味では私が提唱し続けている“プチシネ”の文化的意義はこれから更に高まっていくだろう。まず、少人数であること。そして個々人と事前にしっかりコミュニケーションを交わすこと。そして出来ればそのコミュニケーションを録画しておくことが必要になると思う。コミュニケーション自体が高圧的なものになってはならないからだ。

そこで最も大切なことは個々人のマナーや倫理観。と同時に作品にかける期待と覚悟。これらを共有することが唯一の方法だと考えている。ガイドラインに従うよりは数倍面倒だし難しいことかもしれない。実際、これを契約書にしたところで、どこかに誤解は生まれてしまうだろうし、長々と読まずにハンコを押す人もいるだろう。

少人数で映画を作れる時代だからこそ可能なこと

短編映画「アトリエ」の稽古。女優:丸 純子 画家:山内絵里

現在進行中の短編映画「アトリエ」でもZoomによるオンラインミーティングを録画することで実践しようと考えている。今、示されているガイドラインを当てはめようものなら、脚本の内容はもとより、今行なっているリハーサルですらアウトだからだ。これだけ世の中の常識が変わってしまった中で「もう始めたことだから」では済まないような気がしているので、継続するためには改めて全員の意識の共有と合意が必要だと考える。これには出演者の所属事務所のマネージャーも参加してもらう予定だ。

いずれにしても作品はアーティストレベルの共感と共有によって作られるべきであり、そこでは監督も演者もスタッフも人として平等の立場でなくてはならない。そのような関係をメジャー映画やテレビドラマで作ることができるか?というと、私には自信がない。

例えば画家とモデルの関係性のようなもので映画を作るということ。それは少人数でなくてはできないだろうし、逆に少人数で映画を作れる時代だからこそ可能なことなのだ。よく“プチシネ=自主制作映画”と誤解されてしまうが、今や自主制作であってもメジャー並に大所帯で、中にはアーティストレベルでは考えられない一般会社員のスタッフがいることもある。

プチシネはアトリエフィルムと言い換えてもいい。とにかくしっかりとしたコミュニケーションのもと、個々人が目的と自覚を共有し、信頼を築けるチームであるべきだ。もちろん、コミュニケーション能力が高く、20人でも50人でもそういう関係が作れるものであればそれでもいいし、長編でもシリーズ物でもいいと思う。

映画の国フランスでは、新型コロナウイルスのガイドラインから脚本や演出に手入れが入るようになったと聞く。いくつかのアーティスト団体が猛烈に反対をしているが、その流れはすでに日本でも始まっている。不自然な距離感やラブシーンの欠如がドラマをどれだけつまらない物にしているかを察知して欲しい。今後、ソーシャルディスタンス、食事時は喋らない、みんなマスクをしているといった世の中で、人間関係自体が希薄になっていくのは火を見るよりも明らかだ。

出会いの機会は減り、恋が減り、会話から生まれる理解が減り、当然結婚や出産は減っていくだろう。そういう世の中で我々は何を作るべきなのだろうか?ルールを守る善人をアピールしたいのだろうか?ならばとっとと出演者にマスクをさせればいい。現実の社会はすでにそうなっている。

そもそもオーディエンスがそういうドラマをみたいのだろうか?人と人とが近づき、触れ合い、語り合ってこそ生まれる熱いもの。我々が見せるべきものは、そういうヒトという生き物の素晴らしさではないだろうか?少なくとも私はこれからもそういう作品を作っていきたいし、その覚悟はある。そしてそのリスクが犯せるのはプチシネしかないと感じている。同時にその世界を守るために、より一層のマナーや倫理観が必要だと心を引き締め直している。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。