このコラムでは、デジタル化やコンピュータ化によって、絶滅危惧種となってしまうかもしれないアナログ時代のさまざまな事例を通じて、教育関連の最新動向を探っていこうとしている。今回は、アナログとデジタルに対する勘違いについて考えてみよう。

アナログも存在していたコンピュータ

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Computer History MuseumのBabbage Engineのオンライン展示ページ。Babbage EngineはCharles Babbageが19世紀に設計した最初のコンピュータ。ギアを組み合わせた手動式。設計後153年を経て、ようやく作られたのは2002年だったという。原図に忠実に作られたDifference Engine No.2が2009年5月までカリフォルニア州のComputer History Museumに展示されている。

「最近のコンピュータというものには、わざわざ”デジタル”の文字は付けないのが流儀だ」なんて書くと、「コンピュータがデジタルなのは当たり前じゃねーか」と言われてしまう。しかし、その昔にはアナログコンピュータというのがあり、それと区別するためにデジタルの冠言葉を付けていた時代があったのだ。そもそも同じコンピュータというジャンルにありながら、この2つのマシンの構造は大きく異なっており、その目的とするところも異なっていた。

デジタルコンピュータとは、今現在、身近にあるパソコンを含むコンピュータの事を意味している。ストアードプログラム方式という仕組みで動き、プログラムを記憶し実行する装置と、2値で働く論理回路を持っている。これに対し、アナログコンピュータは、オペアンプなどの回路を用い、計算式を抵抗やコンデンサーなどを用いた回路に置き換え、代入する数値や解答を電圧や電流の変化として読み取るというシロモノであった。さすがに、今ではもうほとんど見る事が出来ない。

デジタルコンピュータの真骨頂は、そのシンプルさにある。すべての物を表すのに「1」か「0」かだけしか使わない。1+1を繰り返せば、どんな複雑な計算でも可能といった割り切りの良さである。その代わり、難しい事をさせようと思えば、多くの回路と素早い動作スピードが要求された。同じ事を、手を変え何回も繰り返させるのであるから当然である。

それに比べるとアナログコンピュータは、回路の構成や使用する部品点数が、デジタルコンピュータよりも圧倒的に少ない。回路としてはいたってシンプルな構造だが、それを安定して動作させるためには、回路に使っている素子の特性とか外界の温度、湿度などを一定に保たねばたらない。その理由は、回路から出力される電圧や電流といった値から計算結果の数値を読み出すために、回路に使っている素子の状態がそのまま計算結果の正確さに反映されてしまうからである。そのため雨の日に使っていると、回りの湿度に敏感に反応して、「今日は気分がのらなーい」みたいな結果しか出してくれない事もあった。そのかわり、微分や積分を何回も繰り返してやっと答えを出せるような問題を、天才のように一発で答えを出してくれることもある。ちょっと例えは悪いが、能力は平凡だが努力家で真面目なデジタルと、能力はあるが気分屋で天才肌のアナログといったところか。そういう意味では、アナログコンピュータは、だいぶ気難しかったのである。

「デジタルだから……」というのは本当のことか?

さて、アナログコンピュータは廃れ、デジタルコンピュータがますます栄え、現在の状況に至った。このように移行した原因には、アナログとデジタルのコンピュータのそれぞれの性質の違いによるものと思われているかもしれない。しかし、これが大きな勘違いというものだ。デジタルコンピュータへの移行は、実は主にコストによるものだったのだ。性能を上げようとしたときには、アナログよりもデジタルの方が確実に安く上がるからだ。しかし、なぜか「アナログは古臭くて廃れ、新しくて優れたデジタルが後を継いで、ますます発展してきた」というような誤解を、誰もが持ってしまっているような気がしてならない。

こうした誤解を生んでしまった理由の1つに、CMの存在がある。今でこそ、わざわざ「デジタル」なとどうたわなくてもデジタルが当たり前の世の中になっているが、デジタル機器の出始めの頃には、「デジタルだから綺麗」とか「デジタルだから音が良い」といった宣伝文句を数多く見かけた。現在、地デジ放送普及のため、旧来の放送にわざわざ「アナログ」の文字を出してデジタルの方が良いと宣伝しているが、それははたして本当なのだろうか?

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アナログは連続量なので曲線になるが、デジタルは不連続量なので階段状になる。

アナログは連続量なので曲線になるが、デジタルは不連続量なので階段状になる。

アナログは連続量である。「1」と「0」の間にはいくらでも数値があるわけだ。1/10でも1/1億でも、精度さえ上げればいくらでも存在できる。つまり、無限の数値の可能性が埋もれているわけだ。これに引き換え、デジタルは不連続量である。「1」と「0」の間には何も無い。いや正確には、何も無いと決めてしまっている。これがデジタルの割り切りの良さ、気風の良さの根源を形作ってきた。

最初に書いたように、デジタルコンピュータはデジタル回路で、アナログコンピュータはアナログ回路で構成されている。デジタル回路は、アナログ回路として「1」と「0」の間にあった多くの数値をゴミ箱にポイッと捨てるが如く、一刀両断に切り捨てることで生まれてきたのだ。つまり、デジタル回路はアナログ回路の一部分でしかないと言うこともできるのだ。連続量を不連続量の中に押し込める事を「量子化」と呼んでいる。

アナログ量を量子化するには、「ここからここまでは1で、それ以外はゼロ」と決めてしまえば良さそうなものだ。しかし、実際にアナログ回路を量子化する際には、「1でも0でもない」という曖昧な領域が存在する。この領域を「スレッショルド」と呼んでいる。この曖昧な領域は、回路を構成する個々の素子のバラツキを吸収するために存在し、実際の回路の実装においては、この曖昧領域をリレーのバトン受け渡しゾーンのように使っている。この領域を下から上に横切った時は0から1に切り替わり、上から下に横切った時は1から0に切り替わる、といった具合である。

デジタル的な生活の中にも必要なアナログ

アナログコンピュータとデジタルコンピュータの世代交代は、世の中の流れがアナログからデジタルへと移行しているという現状に無関係では無いだろう。現在、我々を取り巻く環境は、効率が優先され、限りなく割り切り良く、デジタル的になって来ている。企業は熾烈な競争のために、日々の業務から無駄を無くし、人を減らし、少しでも効率を高めようと奔走している。そのために、社会や我々個人の生活にも効率化の波が押し寄せており、生活時間から曖昧な部分が排除されている。

しかし、それは本当に良い事なのだろうか。1つの例として「歯車の組み立て作業」を引用してみよう。歯車は1つでは役にたたないので、必ず2つ以上で使用する。個々の歯車の精度が悪いと、ラフに組み合わせるとガタという不整合が発生し、スムースに回らなくなる。あまりガタが多いと、歯が削れてしまったり、欠けてしまう可能性すらある。しかし、寸分のスキも無く、2つの歯車の寸法をピッタリと合わせると、2つの歯車はガッチリと噛み合って全く動かなくなってしまう。これを防ぐために、個々の歯車には「遊び」と呼ばれる無駄な隙間が存在している。この遊びによって、歯車はスムースに回り続けるのである。デジタル的にピッタリと噛み合った無駄の無い生活の中にも、アナログ的な遊びは必要ではないのか。

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この連載では、アナログとデジタルが持つ特性や側面によって、いろいろな物事の生業を考察してみようと考えているのだが、歯車の例はアナログ作業の代表的な側面を表している。そもそもアートは、人間の持つこういった遊びや心のアナログな部分にルーツがある。アナログ的な世の中がデジタル的に変化して行く事によって、我々を取り巻く環境にも、遊びやゆとりが減ってはいないだろうか。その事によって、アートや音楽や映像が影響を受けてはいないだろうか。

次回には、実際の現場でも起こる実例をあげて、問題点を掘り下げたい。

今間俊博(尚美学園大学 教授)

WRITER PROFILE

今間俊博

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アナログ時代の事例を通じ、教育関連の最新動向を探る。