txt:ふるいちやすし 構成:編集部

驚きの映画祭

とあるショートフィルムの撮影を手伝った縁で、その作品が入選したとある映画祭を観に行ってきたのだが、そこで私は信じられない光景を目にしてしまった。客席は満員。300人以上が見守る中、全ての作品の上映後、全監督を舞台に上げて、司会者が審査員にご意見、ご感想を求めると、舞台上の監督や出演者とその作品に対してのダメ出しが始まった。

考えられない!その監督を信じて頑張ってきた出演者やスタッフ、そしてそれらを応援している縁者やファンがおそらく沢山いるであろうその会場でだ。もちろん審査員が言っている事は的を得たものもあるし、私も同じ感想を持った事もある。だが、それが学校やワークショップならまだ分かるが、舞台の上に上げてダメ出しをする理由がどこにあるのだろうか?

それも自分達が選んで入選させた監督に対してだ。個人的な好き嫌いまでは許されたとしても、ダメ出しは楽屋トークの最たるもの。決してお客様に聞かせてはいけないものだ。しかも部外者がそれをするなんて!やるんなら別室か個人的に呼び出してやるべきだし、それも本人との信頼関係があればこそのものだ。中にはありがたそうに「勉強になります。」なんて言っていた監督もいたが、もし私がその壇上にいたら、全てを辞退してでもその場から立ち去ったであろう。こんな映画祭、応募はおろか、二度と見に来るものか!

※もちろん本文の映画祭とは関係ない。9月にインドネシアで行われたWorld Film Awards 2018。「千年の糸姫」で最優秀作品賞(The Best Film)を戴いたが、受賞を逃した全ての監督も含めて、こちらが恥ずかしくなるほどの敬意が払われていたのを感じた

製作チーム=1つの社会

映画製作という船を漕ぎ出した以上、監督は全責任を負う。スタッフも出演者も、仮に疑問や不満があっても、その船を降りるまでは監督を信じて従う。そうでなくては船は沈んでしまう。だから監督にはそれだけの権限が与えられているものだ。まぁ例外もあるだろうが、少なくとも私はそうでなくてはならないと思っている。その代わりに出来上がりに対する全責任を負うのだ。

例えば仮に、下手な芝居をしてしまう役者がいたとしても、それをどうにもできない演出力やそんなカットを使ってしまう監督のせいで、それ以前にそんな役者を選んだのも監督だ。例えそれが集客だけの為にプロデューサーが無理やりキャスティングした芝居のできないアイドルであったとしても、それを受け入れた時点で、監督はなんとかしなければならない責任がある。最悪どうにもならずにどうしようもない作品となってしまっても、その責任を役者に押し付けてはいけない。他のどのスタッフのせいにしてはいけない。少なくとも公の場では絶対に口にしてはいけない。監督の権限と責任はそういうものだと私自身は心得ている。

たしかに監督は最終責任者なのだが、一番偉い人というのとはちょっと違う。出演者もスタッフもそれぞれに人生賭けて磨いてきたものを作品の為に持ち寄り、チームのなくてはならない一端を担う。例えば助監督は監督の召使いのように思ってる人もいるだろうが、彼らもまたなくてはならない専門職なのだ。独特の視野と行動力は監督のそれとは全く違い、彼らがいなくては現場は回らないし、仮に私がその立場だったらきっとかなりヘボな助監督にしかなれないだろう。照明、美術、ヘアメイク、衣裳、そして俳優、それぞれの立場と美意識から作品の進むべき方向性はあるのだろう。だが、最終的に進む道は一本でなければならない。それを決めるのが監督だ。

多くの間違った方向性の中から一つの正しい道を選ぶのはそんなに難しい事ではない。だが彼らが思い描いている道も、それぞれに素晴らしかったりするから大変だ。方向を一つに定める為に、いくつもの素晴らしい意見を否定しなくてはならない。そしてそれに納得して一緒に進んでもらわなくてはならない。「こいつが言うのなら間違いないだろう」。それが監督への信頼というものだ。

いずれにしてもよく話し、進むべき道とその美しさをしっかり伝えなければならない。その為にも私はいつも小さなチームでやる事を心掛けている。大きなチームにもそれなりのメリットは沢山あるのだろうが、演出部、俳優部、照明部などと部分けして、それぞれに小さなヒエラルキーがあり、お互いまるで聖域のように立ち入らないようでは濃密なコミュニケーションなどとれる気がしないのだ。

幸運なことにたまたま私は作、演出、撮影、編集、音楽と多くの役割を一人で担う事が出来る。これは何も人件費を浮かそうとしている訳ではなく、作品のコア、つまり柱になる部分のコミュニケーションを確かなものにするという意味ではいい手だと思っている。自分さえブレなければそこが揺らぐ事はない。

そうは言っても全てが出来るわけではない。演技、ヘアメイク、衣裳、制作、助監督、人の力を集めなければ作品はできないし、もちろんそれが喜びだったりもする。そう考えればコミュニケーション能力というのとても重要で、逆に言えば、例え一つのことしかできなくても、そういう濃密なコミュニケーションが図れる能力と仲間がいれば、作品のコアは揺るがないはずだ。

分担、おかしなプライドによる領域意識みたいなものが働けばせっかく集まった才能が作品をバラバラにしてしまう方向に働いてしまう。領域を守ろうという意識は必ず内向きに働き、作品はダメになる。人間関係はとても大切だが、少なくとも製作期間中は仲良くなる為に集まっているのではなく、どの立場の人もみんな作品を良くする為に集まっているはずだ。その一つの方向にみんなが向いた時に素晴らしい作品は生まれる。そしてその作品がお互いの敬意を生み、クリエイター同士の本当の人間関係を築くものだ。

ここに書いたのはあくまで私の考え方ではあるが、いずれにしても製作チームというのは大袈裟に言えば一つの社会だ。それぞれの考え方の微妙なバランスで成り立っている。作品を世に出す以上、時には厳しい評価を受ける事は仕方ないことなのだが、少なくとも自分達で映画祭に招いておいて、その舞台上、ファンやスタッフの前で恥をかかせるという事は絶対にあってはならない事だ。ひょっとしたら同じようなことをしてしまっている映画祭が他にもあるのかもしれない。映画という文化を育む為には欠かせない機会であるだけに、映画を作っている人達を貶めるような行為だけはやめてほしいと思う。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。