txt:林永子 構成:編集部

日本のミュージック・ビデオ(以下:MV)シーンを超近視的に目撃してきた映像ライターのナガコこと、林永子がその歴史を振り返る連載企画。これまでは、Vol.01のご挨拶以降、80年代黎明期から90年代隆盛期の時代背景について、駆け足で記してきた。

Vol.02 黎明期編:1980年代の日本の音楽映像とは?

Vol.03 萌芽期編:ミュージックビデオは邦楽とともに輝いた90年代へ

Vol.04 隆盛期編:90年代後半の最隆盛期到来

次はいよいよ激動の00年代に突入する予定だが、ここで一旦、番外編として、1998年よりMVと関わり始めた筆者自身の体験を記してみたい。

初めて見た生中継の現場

当時24歳だった私は、音楽専門チャンネル「スペースシャワーTV」の番組およびMV等を手がける制作プロダクション「SEP」に入社し、社員およびエージェント契約のディレクター約10名(以下:ディレクター名敬称略:UGICHIN、カーツ鈴木、北岡一哉、末田健、須永秀明、谷口慎太郎、橋向”ハル”治海、Higuchinsky、光岡太郎、宮坂まゆみ等)のマネジメント業務に赴いた。

制作職ではなく、デスク兼営業のような役割だったが、時に人手の足りない制作現場に出向き、邪魔にならない程度にお手伝いすることもあった。

最初に足を踏み入れた現場は、スペースシャワーTV「MVA(Music Video Awards)1998」の生放送だ。MVAは、スペースシャワーTVが年に一度開催する祭典で、各音楽ジャンルのノミネート作品の中から大賞作やベストMVディレクターを決定するイベントである。その放送の仕様は年次によって異なり、ライブ中心の生中継イベントもあればスタジオでの収録番組もあった。

1998年は、約2000人を収容する渋谷公会堂に観覧希望者を招待し、各部門の受賞ミュージシャンによる該当楽曲の演奏をもって各賞の発表を行う演出だった。BEST VIDEO OF THE YEARは、hide with Spread Beaver「ピンクスパイダー」(MVのディレクターは丹修一)。同年5月に急逝されたhideに代わり、マニピュレーターのINAが受賞パフォーマンスを行った光景が今も記憶に残っている。

また、複数のミュージシャンへの対応と生放送の進行で、混雑と緊張を極める現場の臨場感には衝撃を覚えた。そこで、それぞれのセクションのプロフェッショナルが、何をしているのか。個々の役割に興味を抱くと同時に、全員が一丸となってひとつの完成形態をつくりあげていくチームワークのダイナミズムに圧倒されたものだ。

MVディレクタームーブメント

以降、MVも含め、映像制作現場で「誰が、何をしているのか」を実際に見聞きする日々が始まった。積極的にリサーチしたというよりは、担当ディレクターや社内外のスタッフとの日常会話がそれそのものだった環境において、貴重な見聞が全自動的にもたらされる恵まれた状況にあった。

折しも1998年は、MVの隆盛期。音楽専門チャンネルや「COUNT DOWN TV」(TBS系列 1993年~)を筆頭としたチャート番組を中心に、テレビメディアでの需要が加速的に高まる中、MVを題材としたバラエティ番組「プロモマニア」(スペースシャワーTVとフジテレビ系列、両局で1998年に放映)も登場。主にMVを手がける人気監督たちは「MVディレクター」と呼称され、若者を中心に人気を博した。

同1998年は、日本のMVディレクターの第一人者である中野裕之の映画初監督作品「SF サムライ・フィクション」が公開された年でもある。1999年には、竹内鉄郎がギターウルフ主演のゾンビ映画「WiLD ZERO」を、また高橋栄樹がTHE YELLOW MONKEY主演の「trancemission トランスミッション」を公開。

その後も続々とMVディレクターによる映画作品が発表された(例:Higuchinsky「うずまき」2000年、須永秀明「けものがれ、俺らの猿と」2001年、薗田賢次「狂気の桜」等)。

他にも、BS-i開局記念特集ドラマ「地球大爆破」(2000年)や、短編オムニバス映画「Jam Films」(2002年)、「Grasshoppa! VOL.1」(2002年)等、MVやCMを手がけるディレクターが、映画、ドラマ等のオリジナル作品を手がける事例が続々と続く。その詳細については、2000年代以降の該当回にてまとめる。

「いろいろな人が、いっぱいいる」

この一連のムーブメントを受けて、自分も「MVディレクター」になりたいと希望する若者が急増し、人気ディレクターズカンパニーや制作プロダクションへの入社希望の問い合わせも盛んにあったと聞く。

私自身は、実はそのような背景をよく知らぬままアルバイト経由で「SEP」に入社している。音楽が好きで、美大の映像学科を卒業しているため、「音楽映像の制作会社、ちょうどいい落とし所なんじゃないの」みたいな非常に安直かつ不遜な理由で面接に行き、なぜか採用していただいたのだが、のちに映像ライターとして活動する際には「最初の会社がSEPでよかった」と思うことが多々あった。

後々知ったことだが、当時のMVのプロダクションは、個人および少数で運営している会社が多く、代表者の個性や趣向が会社の特色として前面に押し出される傾向にあった。

他方、SEPは社員数が多く、MV班と番組班それぞれに複数の制作ラインを有する。母体がスペースシャワーTVである関係性上、レコード会社およびミュージシャンとの距離が近く、芸能界色の強い案件から独創性の強いMVまで、あらゆる種の音楽映像を偏りなく多数手がけるという特色をもつ。

マネジメントしていたディレクターも10名とボリュームがあり、MVを専門的に手がける人もいれば、ミュージシャンからの指名でMVと番組の両者を手がける人もいた。他、ライブ映像やCG表現を得意とする者も含めて、それぞれの手がける仕事にはバリエーションがあった。

同社には美術部もあり、外部のディレクターやカメラマン等のスタッフも常に複数出入りしていた。社内にいると、今まさにスペースシャワーTVで放映されている人気MVの監督が通りかかり、現場でのこぼれ話を教えてくれる。同社の向かいにあったスペースシャワーTV(現在は同じ建物内)に行けば、編成部や技術部、編集室等、様々なセクションに赴く人々に会える。

そんな「いろいろな人が、いっぱいいる」環境にて、同じMVというコンテンツでも100人いれば100通りの解釈や価値観があると学んだ。予備知識のない状態でその学びを得たことは、MVを広義に捉える視野を培う素養として役立った。もしも自分がひとりのディレクターの個性が強く反映されたプロダクションに入社していたら、ともすれば1/100の視点に拘泥し、MVの見方が狭義になっていたかもしれないと想像する。

MVは誰の作品か?

以降、マネジメント業務に赴きながら、主にMVにまつわる知見を深めるうちに、ひとつのぼんやりとした疑問を抱くようになった。それは「MVは誰の作品なのか?」という問いである。

レコード会社の主に宣伝費によって制作されるMVの大義名分は、ミュージシャンの新曲・新作(アルバム含む)の販売促進ツール=プロモーション・ビデオ(以下:PV)である。その著作権は発注主のレコード会社に帰属し、ミュージシャンの広告・作品として広く一般に公開される。

受注者である映像制作者は、概ね、成果物(MV)の納品および金銭取引とともに著作権をレコード会社に返上する「買取契約」にて制作をおこなう。この点については、後々の2000年代半ばの回か、別立ての特集を設けて詳述する。

というのも映像制作者の著作者人格権が蔑ろにされている点、契約・取引にまつわる不足や不満を問題視する声があがり、映画の制作委員会制度やCMの著作権ガイドライン(クライアントと広告代理店と映像制作会社が合同で著作権者となる)を参照のうえ、音楽映像の権利を追求する活動が2000年代中頃に起こった。当方もその渦中にいたのだが、詳細を記す際には丁寧な説明および再調査を要するため、別途機会を設けたい。

発注依頼が「ミュージシャンのMV制作」であり、その取引の通例が買取となる背景を鑑みると、MVは、問うまでもなく明快に「レコード会社およびミュージシャンの作品」である。

その「ミュージシャンの作品」をつくっているのは誰かといえば、ディレクターをはじめとした映像制作者たちである。作品の内容については、レコード会社やミュージシャンのオーダーを具体化することもあれば、映像サイドからの提案が採用されることもあり、概ねその両者を精査するところから企画は始まる。

結果、完成された作品の多くには、映像制作者たちの秀逸なアイデアとスキルフルな技術力がふんだんに活かされている。ならばMVは「映像制作者の作品」でもあると言えるわけだが、一般視聴者層には「ミュージシャンの作品」として認識される一方で、映像制作者の情報が伴わない。

当時はMVディレクタームーブメントが発生していたとはいえ、現在と比較して、ディレクター以下映像制作者の名前や情報が開示される公的な機会はまだまだ希少だった。映像制作者たちの類いまれなる能力や惜しまぬ努力を間近でみた当方は、作品の功労者である映像サイドの存在をもっと一般層にも知ってほしいと願った。

また、時にミュージシャンを指して「アーティスト」と称する表記を目にするが、ディレクターも各エキスパート(撮影・照明・美術・編集等)も「アーティスト」として対等に扱われるべきだと考えた。入社間もない当方は美大を卒業して1年経ったばかりで、そもそも芸術家や映像作家に畏敬の念を抱いている。その延長で、MVのディレクターたちも作家として尊重されてほしいと、手前勝手ながら切望した。

もっとも、ディレクターの中には、クライアントのオーダーに応えるプロフェッショナルな「職業ディレクター」であることに誇りを持つ者がいる。自分はアーティストや作家の類ではなく、大好きな音楽を映像で応援する、縁の下の力持ちでありたいと願う者がいる。もちろん、作家性の尊重を希望し、ミュージシャンと対等な立場を求める者もいる。

当事者の動向については当事者に決めていただくとして。MVカルチャーにおける音楽と映像の間に格差を感じた私は、映像サイドの知名度および地位向上に貢献するためにはどうしたら良いかと考え、上司に相談したうえでひとつのトライアルを行なってみることにした。それはマネジメント担当ディレクターたちをアーティストとして広く紹介するための個展を開催しようという企画である。

ディレクターの作品集の概念

画家が絵を展示するように、映像作家が作品を上映するように、ディレクターの名前を前面に出して、これまで手がけた音楽映像作品の数々を公開する、その展覧会を芸術イベントとして開催し彼らの作家性を世にアピールする、という趣向である。

当初は、10名のディレクターのショーリールをそのままモニターで上映展示できるといいなと考えていた。YouTubeやVIMEO等でMVをオープンに閲覧できる現在、「ショーリール」の存在を知らない方もいらっしゃると思うので補足すると、それはディレクターの作品をまとめたプレゼン資料であり、あくまでも映像業界内で内々に参照されるツールである。

インターネット前夜の当時は、ディレクターが繋いだマスター(Digital BETACAM等)を当方がせっせとVHSにダビングし、必要な際にエアパッキンで梱包して各位に配送するという作業を繰り返した。各レコード会社やプロデューサーズカンパニーには様々なディレクターのショーリールがストックされていて、そのショーリール以外に「ディレクターの作品集」という形でまとめて閲覧できるツールはなかった。

2004年以降は、ミッシェル・ゴンドリー、スパイク・ジョーンズ、クリス・カニンガム等、世界の人気ディレクター名義のMV作品集「Directors Label」シリーズ(Asmic)が発売。世界的なヒットに加え、MV集をディレクター名義で商品化するという革新的なプロジェクトそのものが大きな反響を呼んだ。

これにより、日本でも、2007年に宇川直宏「INTOXICATING MUSIC CLIPS OF UKAWA NAOHIRO『MAD HAT LAUGHS!!!!!』」(Ki/oon Records)、2009年に丹下紘希「TANGE KOUKI VIDEO COLLECTION」(TOY’S FACTORY)が発売されたが、いずれも商品化するまでに長い時間をかけて、いくつものハードルを越えている。その創意工夫や時代背景については、2000年代中頃から後半にかけて記す回で詳述する。

前代未聞のMVディレクター展

1990年代は、ディレクターの作品集といえばあくまでも内々の資料であり、公共の場には現れない代物だった。現在もディレクターの作品群をオンライン閲覧する際にパスワードを要することがあるが、それも偏に映像には複数の権利や契約、守秘義務が混在しているためである。

そんな営業用のショーリールを一般公開するためには、レコード会社およびミュージシャンの許諾やJASRAC申請以下、数々のハードルをクリアする必要がある。が、大人の事情も現実もまったく知らなかった当方は、気楽に思いつきを企画書に認めた。

同時に、都内の小さなギャラリーからイベントスペース、映画館やクラブなどに、スケジュール、金額、設備等を問い合わせたところ、「ラフォーレミュージアム原宿」のイベントプロデューサーの方が興味を持ってくださり、早々に事務所を訪問することになった。

プロデューサーの方からは、「SEPのディレクターの作品、と言われても、一般的な知名度がないので集客を見込めない。ミュージシャンの作品じゃないと引きがない」との率直なご意見をいただいた。次いで「スペースシャワーTV主催で、日本中の秀逸なMVが集結する上映展を大々的に開催するということならば、自社イベントとしての開催も検討したい」といった内容のご提言も賜った。

しかしスペースシャワーTVを巻き込むとなると、入社1年目にも満たない小娘が太刀打ちできる話ではない。急ぎもち帰って上司に報告し、改めて社内でミーティングを行った結果、なんとなく思いついちゃった企画発案時よりたったの半月ほどで「スペースシャワーTV主催、日本初の邦楽MV上映展」の開催が本当に決まってしまったのだ。

タイトルは「MUSIC VIDEO DIRECTORS COLLECTION ミュージック・ビデオ ディレクターズ コレクション」。広告(PV)性よりも、作品(MV)性を重視したかったので、表記はMUSIC VIDEO。その映像制作者たちの名前と素晴らしいクリエイティビティを広く世に知らせる目的がぶれないように、MV展ではなく、MVのディレクター展にしたいと提案した。

「二次使用」との格闘

イベント開催決定後、まずは、スペースシャワーTVおよびSEPの重役のみなさまと入社一年目の小娘というなんともちぐはぐな取り合わせで、全レコード会社およびレーベルの代表取締役以下要人を訪問し、ご挨拶をおこなった。

なにしろMVの著作権を保有しているのはレコード会社である。ディレクターおよび映像制作者の意志のみでMVを公開・上映することはできない。レコード会社以外の者(映像制作者含む)がMVを二次使用して大々的に上映イベントをおこなうといった前例も、当時はなかったため、まずは丁寧に趣旨を説明する必要があった。

同時に、日本でMVを制作している主要プロダクションおよび活躍しているディレクターを上司とともに訪ね、人選についても検討した結果、38名のディレクターに参加していただくことが決定した。そして各位に自身が上映したい希望作品を1人につき約10作選出していただいたところ、総タイトル数は旧譜から新譜まで約400作品となった。

以降、全タイトルの上映許諾をいただきにあがる行脚の日々が始まった。各レーベルの代表の方々にご挨拶したとはいえ、1作品ずつの許諾を得るためには、現場を取り仕切る直接の担当者に交渉しなければならない。

その担当者だが、宣伝部が対応してくれることもあれば、制作部の音楽ディレクターに話を通さなければならないケースもある。レコード会社ではなくてマネジメント事務所に先に聞いてみてほしいと言われた際には、マネージャーにご説明に出向く。同じミュージシャンの作品が2、3タイトル候補に上がっていたとして、年次ごとに担当者が変わっている場合は、それぞれの担当を訪ね歩いてタイトル毎に交渉する。

また「上映展が営利目的の有料イベントであるならば、無償提供はあり得ない。二次使用料が発生する」との意見も多く賜った。非営利の無料イベントであれば、新しい楽曲については「プロモーション」の一環として許諾を得やすい傾向にあった。他方、旧譜は、プロモーション期間を終えている。ミュージシャンのイメージが刷新されている場合、イベントの有料無料問わず、許諾を得られないこともある。

「こうすればMVの二次使用の許諾を得られる」というメソッドも、専門的な相談窓口も特にない。400作品あれば400通りの事情がある中、ひとつひとつの作品の置かれた状況に向き合うより他に打開策がない。度重なる交渉の末、どうしても許諾がおりなかった作品については、主役であるディレクターと相談し、再び新たな作品選出と交渉に当たった。

かくして、全曲分の承諾を這々の体で獲得した後には、各レコード会社法務部への使用申請作業が待っている。現場で承諾を得たからクリアというわけではない。法務部に申請した書類が通ってようやく最終許諾となる。

そこで、現場ではなく社の判断で許可できない作品や、他レーベルへ移籍したミュージシャンの現在の担当者の承諾の未確認等、懸念要素にチェックが入り、それらをクリアしてからの再申請を促され、今一度振り出しに戻る。

田舎の市役所のたらい回しか!いやいや、すべてはこんなに大変だって知らずに企画を立ち上げた自分が悪い。いかに浅慮であったかを痛感しながらも、たくさんの方々のご協力のおかげ様でなんとか全タイトルの使用を了承いただき、最後の最後にJASRAC申請書類を全タイトル分手書きで記し、提出し終えるまでに、まる1年の月日を費やした。同時に、会場デザイン、パンフレット、ポスター等の制作も行い、なんとか実現の日を迎えることとなる。

初めて見た観客のリアクション

2000年9月22日、ラフォーレ原宿の外壁に「maxell CLUB WONDER PRESENTS SPACE SHOWER TV MUSIC VIDEO DIRECTORS COLLECTION」と書かれた巨大な垂幕が降りた。

maxell CLUB WONDERのご協賛を賜り、無料のイベントとして開催できた会場には38台のモニターが並び、そこでディレクターひとりひとりの代表作を各10作前後紹介した。

参加監督は以下の38名だ(敬称略:浅井健、穴見文秀、新谷祐一、板屋宏幸、井上強、井上哲央、今井厚生、UGICHIN、ウスイヒロシ、大喜多正毅、大坪草次郎、上村右近、川崎幹雄、河谷英夫、川村ケンスケ、小島淳二、サイトウトモヲ、信藤三雄、末田健、須永秀明、高木聡、高橋栄樹、竹石渉、竹内スグル、竹内鉄郎、田中秀幸、丹修一、丹下紘希、鶴岡雅浩、中野裕之、中村友彦、番場秀一、Higuchinsky、保母浩章、前嶋輝、宮坂まゆみ、武藤真志、山口保幸)。

会期中はミュージシャンとディレクターの対談トークイベントも4回おこなわれ(玲葉奈×大喜多正毅、TRICERATOPS×竹内スグル、ZEEBRA×丹下紘希、ピエール瀧×田中秀幸)、スペースシャワーTVで放送された。

10日間にわたって開催された同イベントはのべ1万人を動員し、大盛況の成果を得た。無事開催にこぎつけたことも大きな喜びだったが、一番嬉しかったのはご来場者のみなさまの反応だった。

ディレクター別に設置されたモニターを食い入るよう眺めていた若者。ヘッドフォン(隣のモニターの音が混ざり合わないように、各モニターに2つ設置)を奪い合うデート中のカップル。ダンスをフィーチャーしたMVに合わせて踊りだす家族連れのお子様。1日では見きれないと怒ってクレームをつけてきた来場者は、その後3回も来てくれた。

インターネットでMVが見られなかった当時。その制作者がビューアーのリアクションを目の当たりにする機会はほとんどなかった。完成した成果物をクライアントであるレコード会社に納品するところまでが制作者の仕事であり、その先でMVを楽しむビューアーの声をダイレクトに聞くことがなかったディレクターたちは、来場者の笑顔や楽しんでいる様子を見て喜んでくれていた。

私自身も、映像制作者の努力や能力が、多くの人々を喜ばせるエンターテインメントとしてきちんと届いている光景に感激した。そのとき、映像文化を介してより多くの人々が交流する場をつくることが、自分に与えられた仕事なのかもしれないと、ぼんやりながら考えた。

「いろいろな人が、もっといっぱいいる」

好評につき、翌年も「MUSIC VIDEO DIRECTORS COLLECTION 2001」をラフォーレ原宿で開催。2回目の制作は、0から1を生む死闘を繰り広げた前回よりも僅かながらにスムースだった。

今度は50名のディレクターの作品を紹介した(浅井健、穴見文秀、新谷祐一、板谷宏幸、井上強、井上哲央、今井厚生、UGICHIN、ウスイヒロシ、大喜多正毅、大坪草次郎、上村右近、川崎幹雄、河谷英夫、川村ケンスケ、木村豊、工藤伸一、久保茂昭、小島淳二、サイトウトモヲ、信藤三雄、末田健、須永秀明、セキ★リュウジ、薗田賢次、高木聡、高橋栄樹、滝本登鯉、竹石渉、竹内スグル、竹内鉄郎、田所貴司、タナカノリユキ、田中秀幸、丹修一、丹下紘希、辻川幸一郎、鶴岡雅浩、中井庸友、中村友彦、二階健、番場秀一、Higuchinsky、保母浩章、前嶋輝、牧鉄馬、増山淳也、宮坂まゆみ、武藤真志、山口保幸)。

本イベントを介し、当方は日本中のMV制作者と出会った。今振り返ってみると、なぜ開催できたのかわからないくらい奇跡的な体験だった。無論、実現できたのは、スペースシャワーTVとレコード会社およびミュージシャンの強固な信頼関係の賜物である。なにより各社を紹介してくださったうえで進行のノウハウを指示してくださったSEPの上司の方々にも、この場を借りて心から感謝を申し上げたい。

気づけば、「いろいろな人が、いっぱいいる」場から「もっといっぱいいる」環境へ。2002年にはMVライターとして独立し、以降多くのMV制作者と関わる活動をしてきたが、その詳細はまた別の機会に。

次回は怒涛の2000年代!

いよいよ次回以降は、怒涛の2000年代に突入する。MVの人気は上昇する一方だが、音楽産業が低迷し、予算の低下や制作環境の悪化にも悩まされた混迷期。モーショングラフィックスの台頭や、デスクトップクリエイターの活躍がMVシーンに与えた影響とは何か?当方の活動も含めて、数回にわたって整理していく。

WRITER PROFILE

林永子

映像ライター、コラムニスト、ラジオパーソナリティ。「スナック永子」やMV監督のストリーミングサイト等にて映像カルチャーを支援。